すがわら一秀衆議院議員 「被災地より」 2011年 3月 23日 編集室 練馬区議ウェブ議員新聞

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すがわら一秀衆議院議員 「被災地より」 2011年 3月 23日

インタビュー

編集室

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2018-10-9

すがわら一秀衆議院議員 「被災地より」 2011年 3月 23日 -

 震災前にすがわら一秀代議士にインタビューをおこないました。
その際の「練馬区の未来について」というお話しを掲載予定でおりましたが、被災地入りされている(3月22日現在)ご本人のご希望により、被災地での活動記録を掲載することにいたしました。(編集室)

以下、すがわら一秀代議士より

 この東日本大震災の被害を受けた皆様に、お見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方々とご遺族に、心よりお悔やみ申し上げます。
あらゆる救援に全力をあげます。 
すがわら一秀


2011年年3月20日(日)
「出発」
朝一で自民党本部に2トントラックで入る。
水、食糧、おむつ、粉ミルク、乾電池、生理用品、段ボール等、大量の荷物を積み込む。
ありがたいことに、早朝にもかかわらず党の職員が多勢、荷積みの手伝いをしてくれた。
胸が熱くなる。
皆さんに見送られ、出発。
一路、東北へ。

2011年年3月21日(月)
「復興へ。」
自民党災害対策本部の救援物資担当として、運んだ物資がどう被災者へ配られているか、一週間経ち、今何が本当に必要なのか知るため、そして被害の実態を目に焼き付けるため被災地へ。
午後3時、ようやく仙台に着く。
仙台から秘書に代わって、2トントラックのハンドルを握る。
トラックの運転は、学生時代に土方のバイトをしていた時以来だ。
都市部である仙台も、ところどころ被害が大きく、大地震の衝撃を物語る。
<中略>
有名な桟橋の桁に、水面がくっつきそうな勢いはまたいつ津波がくるかわからない様相を物語る。
海洋センターに物資を降ろす。
広い体育館の空きスペースが、物資不足を物語る。
社会福祉協議会とボランティアの方々のひたむきな活動に頭が下がる。
その後一時間かけ、ようやく石巻へ。
あちらこちら通行止めのなか、来る前に練馬で取ってきた緊急車両指定の有効性を感じた。
途中、日曜日で休みのガソリンスタンドに長蛇の車の列。
聞くと、明日の開店を待っているという。
石巻のもっとも甚大な被害の場所に入る。
そこで見た光景はまさに地獄絵。
これが日本なのかと思うほどの街の変わりように身が縮む。
<中略>
夜の帳がおりていたことも手伝い、目に染み込むこの街の惨禍はあらゆる小説、映画、ドキュメンタリーの域を超えている。
それでも市職員の前向きな、懸命な姿勢に胸が打たれる。
避難所になっている市立中学校に赴くと、校長先生が体育館に案内してくださり、避難民と直接接することができた。
みんな家を失ない、家族を亡くした方々ばかり。
それでも、生きようと笑顔を忘れまいと必死で時を過ごそうとする人々に尊敬の念を禁じ得ない。
夜9時。
宿が見つからず、2時間かけて古川へ。
荷台に積んでおいたタンクから軽油をポリタンに入れ替え、給油。
点滅していたランプがかろうじて消えた。
ようやくホテルの部屋に入り、水、電気があることのありがたさを実感。
復興へ。
日本人の知見とひたむきなネバーギブアップの精神のすべてを結集し、この難局を乗りきっていこう、その萌芽を確実に感じ取れた一日だった。
明日は南三陸と岩手の陸前高田に入る。

2011年年3月22日(火)
「決死」
宮城県古川での宿は余震のあまり寝付くことを許されなかった。
しかし、時間がない。
トラックのハンドルを握り、南三陸町へ。
そして、この日見た光景は、あまりにも凄惨で生涯忘れ得ぬものになった。
石巻の惨状もすごかったが、さらに南三陸町の津波の爪痕は自然への畏敬を超え、抑えがたい怒りに変わる。
こればかりはどうにもならないことを承知で・・。
街全体が瓦礫の山、山、山。
車は逆さまになっているのは普通で、なかには車が山に突き刺さっている。
トレーラーですくって叩きつけてもこうはならないはず。
三陸大津波の凄まじさをまざまざと。
なのに、湾に立ち海を見るとその大いなる自然の力は、何事もなかったような静かな体裁を保っている。
あたかも小動物を食い散らかした巨大な野獣が舌をペロリとなめまわしているように・・。
人間のちっぽけささえ感じさせていると言いたげだ。
悔しい・・あまりに悔しい。
自然に対し、「悔しい」と感じることがあることを初めて知った。
極度の疲労困憊で顔が真っ黒の町長と県議に見舞いを申し上げ、対策本部の裏側から物資を搬入。
その県議さん、「よく来てくれました」と何度も何度もあたまを下げられる。
手をとり、「頑張ってください!」と言うのが精一杯で涙があふれる・・。
深呼吸して、「本当に頑張ってください。やれることはお手伝いします」そう心でつぶやいて、再びトラックを出発させる。
その後、一路気仙沼へ。
海岸沿いを走るのだが、今こうしている時も、いつ地震が起きるかわからない。
さらに、原発事故で漏れた可能性のある放射性物質が至近距離のこの地に来ていることは覚悟の上だ。
<中略>
家屋もコンビニも、郵便局も木端微塵。原爆を投下された焼け跡のごとくだ。
それでも、倒れた家屋を懸命に掃除をし、木片を一本ずつ片付けている人々を見ると、復興への人間力を感じる。
そして、最期の目的地岩手県の陸前高田に入る。
急に温度が下がる。
見渡す限り、一面、瓦礫とへどろの混在状態。
宮城よりも格段に道が悪い。決壊しているところが多い。
そして、この被災地では自衛隊、消防士、警察官、消防団、ボランティアの皆さんが、瓦礫や倒壊した家屋のなかをスコップや棒でほじくり返し、「おーいっ」「だれかいるかあ」と叫んでいる。
昨日石巻で80歳のおばあちゃんと16歳の孫が救出されたことが契機となって、今なお必死の捜索を再開したのだという。
高台に急遽こしらえた災害対策本部。
市長に会い、復興に向けて国も全力をあげることを誓う。
物資を運び込む際のボランティアもかなり精力的なのが印象的だった。
しかし、その対策本部の隣に建てられたプレハブの仮庁舎で見た光景は修羅場であった。
それは、「死亡届はこちらです」との張り紙の前に列をなして並ぶ人々の数の多いこと多いこと。
今なお行方不明となっている方々が次第に発見され、遺体となって運び込まれる数は一日数十人。
「もしかしたら・・」の淡い望みもあえなく消え、絶望の淵にあるはず。
一人でも多くの人々を救いたい、強く強く再認識した一日だった。

すがわら一秀衆議院議員 「被災地より」