いじめられっ子 世にはばかる
小学生の頃、犬を三頭飼っていた。
今の私の容姿や職業からは
想像がつかないかも、しれないが
もともと私は
かなりの引っ込み思案で、
体も小さく
どちらかといえば
いじめられっ子であった。
そこで
「犬をお供にして歩けば
みんな怖がって近づいてこないだろう」
とおもって
飼いはじめたのである。
米軍将校が帰国するときに残していった
「ケリー」は
とても賢く
雑種の「クロ」は
木に登って降りられなくなるような
おっちょこちょいだが
それがまた、愛らしく
訓練所に通ったこともある
「アド」は
とても聞き分けがよかった。
それぞれに個性のある三頭を連れて歩くと
自分が強く、大きくなったようにおもったものだ。
ちょっとした仲間はずれや、からかいでも、
私のように、気にしてしまう子どもにとっては
とても、こたえる。
それがよく分かるから
連日マスコミを騒がす「いじめ」の問題から
目をそらすことが、できない。
いじめは
「あってはならないもの」だと言われるが
子どもの世界に限らず
「人の集まるところ、どこにでもいじめがある」
こともまた、事実である。
もちろん、いじめをなくすことは
究極の目標だろうが
それがなかなか難しいのが、現実であろう。
なぜ、最近のいじめが
これほど凄惨だったり、陰湿だったりするのか。
その原因の一つに
子どもたちの「想像力と判断力の欠如」が
あるように、おもう。
一昔前の子どもたちは
いたずらをしたり、言うことを聞かなかったりすると
先生や周りの大人から
容赦なく拳骨やビンタをもらったものだ。
子ども同士
外で無理な遊びをしたり
取っ組み合いの喧嘩をしたりして
怪我をすることも、多かった。
体罰や虐待を容認するわけでもなければ
子どもの安全を守る努力を否定するわけでもないが
子どもたちの生活から
「傷を負う」「傷を負わせる」という経験を
必要以上に奪ってしまったことが
逆に最近の
「手加減を知らないいじめ」に
つながっているように、おもう。
心と体で実際に
「痛み」や「傷」を経験していない子どもには
相手に与える「痛み」や「傷」が
どの程度のものなのか、想像がつかないのだ。
だから当然、
どこで止めるか、の判断も
できないのである。
痛みを知り、
傷を持つ人間であれば
「こんなことをしたら
相手は、どうおもうだろうか」
「自分が同じことをされたら
どう感じるだろうか」
そんなふうに、
ほんの少し想像力を働かせるだけで
他人をいじめることなど
怖くてできないはずである。
日々の生活の中で
多少の怪我をし、痛みを味わうようなことを
避けずにさせてみる、ことだけでも
子どもには
大きくて大切な経験となり
想像力の源にも、なろう。
これは
「いじめをしない子ども」への
第一歩であると、おもう。
ところで
周りの大人は、どうあるべきなのか。
マンガ「ドラえもん」には
主人公ののび太に対する
いじめとも取れる場面が
数多く出てくるにも関わらず
長年
子どもから大人まで
幅広く読み継がれているのは
のび太が暴力や仲間はずれに遭遇したとき
いつも一緒にいて
その話を聞き、見守り、助ける
「ドラえもん」という存在がいることが
のび太にとっての救いであり
その存在を支えに
のび太が元気に立ち上がり
向かっていく姿に
読む者が皆、勇気づけられるからである。
残念ながら
現実には「ドラえもん」はいない。
しかし
子どもの周りには
教職員、児童施設や学童クラブの職員
学校応援団など地域の方々など
たくさんの大人がいる。
この大人たちが
子どもにとっての「ドラえもん」になればよいのだ。
自分の立場や職分にこだわらず
それぞれが連携する
「ドラえもん集団」を作れたら、とおもう。
虎の威を借る狐ならぬ
犬の威を借りていた
引っ込み思案の少年は
半世紀を経た今
おかげさまで
子ども施策に関わることのできる
区議会議員になっている。
いじめられっ子
世にはばかる、のである。
いじめられっ子 世にはばかる
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