先ごろ
いじめや体罰を苦にしたとされる
若者の自死が注目を集め
それをきっかけに
いじめや体罰に対する
社会、行政、政治の在り方が
問い直される事態となっている。
メディアが連日
この問題を取り上げ
政治家や評論家、専門家と言われる人々が
いじめや体罰から子供を守る、とか、
いじめや体罰をなくす、とか
そんな議論をしているが
私にはどうも、なじめない。
若者の自死が
いじめや体罰によるものならば
それらはなくさねばならない、という理論より先に
なぜ、その若者は、自死を選んだのか
という疑問がわいてくる、のである。
死ぬ、という行為は
私にとっては、とても恐ろしいもので
それほど簡単に選べるものでは、ない。
もちろん
自死した若者たちも、そうだろう。
しかし彼らが
さまざまな選択肢の中から「死を選んだ」のではなく
「死ぬこと」しか「思いつかなかった」のだとしたら
それこそが本当の問題なのではないか、と、おもうのだ。
青春の一時期、
読んだ本に影響され
今のつまらない自分を始末するには
自死するしかない、
それなら山で死のう、などとおもい、
冬山に登ったこともある私だが、
そのたびに
自分なりに「生きる」ことの理由づけを
再確認していたように、おもう。
今の自分があるのは、どうしてか、
親の気持ちは、家は、自分の未来は、どうだろう。
そうおもい、ためらい、考えているうちに
「死ぬこと」以外の興味関心や、選択肢が見えてきて
気がつけば
孫を持つ歳になった。
自死を選んだ若者たちは
いじめや体罰で追い詰められ
冷静に考える余裕すらなかったのかも、しれない。
しかし、どこかに、
それ以外の選択肢が、興味関心が、逃げ場が、ある、と
おもえていたら
彼らは死を選ぶことはなかった、のではないか。
自分が苦しくて仕方ないとき、
最後にただひとつ
「死ぬしかない」という
強いおもいを持たせてしまったこと、が
実は
いじめや体罰があることより
大きな問題なのでは、ないだろうか。
最近、気になっていることのひとつに
政治も経済も社会も、皆
「二者択一」の雰囲気がある、ということがある。
いいか悪いか、
こっちかあっちか、
たったふたつしかない選択肢。
本当に、そんな極端なことなのだろうか。
わかりやすい、といえば、わかりやすいが
人気を取ろうとしている政治家が
それを主導していることに
私は、危機感をおぼえる。
生きるか、死ぬか。
そんな単純な「二者択一」は、ありえない。
生きる可能性をもっと求める、
そんな
「生きるための、力」を持つ子どもを育てること。
そのために、政治がすべきこと。
今年の私の課題、である。
生きるための、力
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