焼き物の器 人の器
私の好きなもの、興味のあるもののひとつに「焼き物」がある。
訪れた先に、その土地の焼き物があれば、
手の出るくらいのものを何かひとつ買い求めるようにしている。
土や製法の違いで、様々な色や形をしている「器」たちは、それぞれ違った魅力を持っている。
「器」はまた、人の能力や人格を指す言葉でも、ある。
日々使う器に形や大きさの違いがあるように、
人のありようは様々で、器量とはよく言ったものだと、おもう。
昨年秋、中曽根康弘氏が百一歳で亡くなった。
報道各社が大きく取り上げている様子に、
中曽根氏の存在の大きさを感じるとともに、
平成が終わり、令和が始まった年に、
改めて昭和が終わったような、そんな気持ちになった。
中曽根氏にまつわる言葉は色々あるが
私の中で一番印象に残っているのが、
「風見鶏」である。
彼の政治スタイルを表する言葉として使われた。
周囲の状況を見て、
自分に都合のよい方につく人だと揶揄する言葉である。
佐藤内閣で入閣した際、それまで「反佐藤」と目されていた
彼の変わり身の早さから名づけられたものである。
しかし、その時彼は、
自分が本気で取り組みたい、沖縄問題を扱うポストならば、
国家のために一緒に命がけでやる、とのおもいだったという。
後に彼は、風見鶏と呼ばれたことについて
「風見鶏というのは悪くない。
というのは、足は固定しているんだ。しかし、体の上だけが風で動いている。内外の状況によって対応が異なっているというのは、政治として当たり前のことなんですよ。(NHKHPより)」
と語っている。
世の中に、マイナスなイメージでとらえられていた「風見鶏」だが、
彼の言うように、確かに「足」は固定していて、
どんな風が吹こうが、ぶれも倒れもしない。
しかし、
体は風を受け、風にあわせて動くことができる。
その時の時局、世界の流れや動きといった風を読み、
施策を変えながら進んだ、中曽根氏の信念と、
底知れぬ「器の大きさ」を感じさせられる言葉である。
そしてまた、
最近の政治家の発言に、中曽根氏の器との違いを、おもう。
かくいう私自身も、ひとりの政治家として、
自分の器がどれほどなのかとおもうこともある。
そんな時には、焼き物の器の大きさは、
完成した時から変わることはないけれど、
人の器の大きさは、その経験やおもい、で、変わるものだと信じ、
前をむくことにしている
中曽根氏と風見鶏 風見鶏 中曽根
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