「我是 不是 我的我」(私は 私でない 私)・・・李登輝
戦後七十五年の節目を迎えた今年七月、
ひとりの政治家が、この世を去った。
台湾の元総統、李登輝氏である。
彼は自身の愛した、秋田県のある旅館に揮毫を残しているという。
「我是 不是 我的我」(私は 私でない 私)
この言葉には、李登輝氏の政治家としての生き方が込められている。
彼は「肯定的人生観」を持ってひたむきに生きてきたという。
敬虔なクリスチャンでもあった彼の人生観は、
その著書によれば、
「深い愛で他者を許す神を宿す」ことによって自己中心的な自我が消え、
他者をおもう心が生まれるとし、
これを「私は私でない私」と表現した。
そしてそれは「自我の否定の上に立った他者の肯定」であり、
「私」を超えた「無私」の境地、
「私」のためでなく「公」のために働くことの大切さを表現した言葉だ。
李登輝氏はまた、
「私は権力ではない」という権力観を持っていたという。
彼にとって「権力」とは、
困難な問題の解決や理想的な計画を実行するための「道具」にすぎないのであって、
それは「一時的に国民から借りたもの」で、
「仕事が終われば返還すべきもの」であり、
いつでも手放す覚悟がなくてはならないのだ。
一国の総統と一区議会議員では、スケールの違いはあるけれども、
私の議員という立場もまた、
区民の皆さまから託されたものであり、
区政の問題解決や充実のために使う、ひとつの手段であることを、
そしてこの立場は決して「私」のためのものではなく、
「公」のものなのであることを、忘れてはならないと、おもう。
このことは、首長もしかり、区の職員もしかりで、
施策を立て、運用し、行政を動かすことができる立場にある人間は、
自分という人格でありながらも、
「私」で動くのではなく「公」のために働くという意識を常に持ち続けていなければならない。
なんとも厳しい話ではあるが、
これこそが「公」の立場にある者の、第一の心構えであろう。
李氏の大切にした言葉が、もうひとつある。
中国の古典、中庸にある
「誠は物の終始なり。誠ならざれば物なし」。
彼にとって「誠」とは、
「相手にわかる言葉で説く」ということであったという。
私が議員として、
様々な場面において自分自身のおもいを、言葉で伝えるとき、
こころに「誠」をもっているか。
一般質問を終えて、この文章を書きながら、
何度も自分に、問いかけ続けている。
「我是 不是 我的我」(私は 私でない 私)~李登輝 李登輝
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