
時折、無性に食べたくなるもの
どぜう
時折、無性に食べたくなるもの、は
誰にでもあるとおもう。
わたしにとって
無性に食べたくなるもののひとつに、
「駒形どぜう」のどじょう鍋、がある。
前に書いた
蕎麦の店とおなじで
建物や、座敷や、庭や、
何となくにぎやかなのに、うるさくない
独特の雰囲気、など
それは、えもいわれぬ空気、だ。
そして、どじょう鍋に
刻みねぎをたっぷりとのせて
ぐつぐつたぎるところを
口へ運ぶときの、うれしさといったら、
これ以上のものは
そうそうあるまい、と、おもう。
だから
どじょうのように、泥臭く、だのという
たとえ話をする人は、
どうも、信用できない。
たしかに、どじょうは
田んぼや川の泥の中にいるもの、だが、
その水や泥がきれいでなくては
生きることができない。
きれいな水、おいしいエサがあってはじめて、
おいしいどじょう、が育つ。
そしてまた
おいしいどじょう、があったとしても
それを
おいしく食べるには
どじょう鍋をこしらえる中に
さらなる工夫が、技術が、ある。
いかに、おいしく、どじょうを喰わせるか。
200年の長きに渡る、老舗の努力を、おもう。
「駒形どぜう」の味をおもいながら、
どじょうが、
あの素晴らしいどじょう鍋になることをおもいながら、
政治家として、
自分をどじょうにたとえるのは、
ずいぶんと覚悟がいるな、と、おもった。
どじょうは
どじょうのまま、ではいけない。
工夫と、努力で、
あの、どじょう鍋に、ならなくては、いけない。
どじょう鍋のような仕事、ひとつでも、できるか。
どじょう鍋のような議員に、なれるか。
次に、どじょう鍋を食べるときには
ちょっとばかり、緊張するかも、しれない。
どぜう
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