関口 和雄(せきぐちかずお)
Sekiguchi Kazuo

- 会派・政党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
- 委員会
議会運営委員会
区民生活委員会
総合・災害対策等特別委員会 委員長
民生委員推薦会
土地開発公社評議員会 - 略歴
学歴
練馬第二小学校・練馬中学校 卒業
都立大泉高校 卒業
中央大学経済学部 卒業
☆大学在学中、仲間とともに「史蹟研究会」を起こしました。
この時、奈良・薬師寺の高田好胤猊下に出会い、以後、深い
交流を持つことになりました。今も、年に一度は薬師寺を
訪れ、猊下からいただいた数々の言葉をおもい、気持ちを
新たに、日々活動しています
初当選
1979年
職歴
第43代・50代・51代・59代 練馬区議会議長
練馬区レクレーション協会 会長
練馬区グラウンドゴルフ協会 会長
中央大学学員会練馬支部 顧問
当選回数 11回
座右の銘
人生の本舞台は 常に将来にあり
関口 和雄
関口和雄 公式サイト http://www.k-sekiguchi.jp/sekiguchi04.html
関口和雄ブログ http://sekiguchik.exblog.jp/ - 住所
〒176-0021 練馬区貫井3丁目53番8号
- 電話番号
03-3998-1752
関口 和雄のニュース
All news from Sekiguchi Kazuo
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区議会議員を退くことを決意
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2023-3-7
人の「ことば」に、ハッとさせられる瞬間がある。 テレビ番組で、本で、新聞で、身近なところで聞こえる会話で。 いつもおもうのは、人が発する「ことば」には、 それがどんな「ことば」でも、 それを発した人の「人となり」が現れる、ということだ。 だから私はつい、気になる「ことば」に出会うと、それをメモしてしまう。 昨年、今期限りで区議会議員を退くことを決意した。 社会状況の変化の中で、積み重なる区政の課題をおもい、 自らの経験を活かし議員として活動を続けることも考えたが、 様々に熟慮の末、今回の結論に至った。 これまで書き溜めてきた「ことば」のメモを、 何度も見返しながら、考えを巡らせてきた。 死ぬまで絵を描いて 死んでも絵を描きたい 何百年でも 何千年でも 草間彌生 芸術家・草間彌生氏のことばである。 九十歳を超えた今も、新たな作品を生み出し続ける草間氏の、 絵を描くことに対する執念のようにもおもえる熱く強いおもいが迫ってくる。 初めて選挙に出馬することを決めたときあれほど思い悩み、 議員になってからも自分に何ができるか、 自分は議員でいていいのか、 自問自答の日々だったのに いつの間にか、議員として仕事をしたい、 死ぬまで政治家として生きたい、 とおもうようになっていた自分に気づかされたひとことである。 政治家の人生は、その成し得た結果を歴史という法廷において 裁かれることでのみ、評価されるのです。 中曽根康弘 令和元年に亡くなった中曽根康弘氏のことばである。 一地方議員である私にも、区政の中で、 形にすることができたと自負するものがある。 それらが形を変え、進化しながら続き、 練馬区の歩みの中に残ることができたら、 政治家として本望だと、おもう。 美事なる 此議事堂に ふさはしき 議員を得るハ 何時の代ならむ 尾崎行雄 憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄が、 国会議事堂の落成の際に読んだとされる歌である。 議会政治の父が願った日本の政治と議員の姿は、 未だ遂げられていないと、感じている。 十一期目の練馬区議会議員の任期満了は五月である。 その日まで、全力で責務を全うし続けること、 そして任期を終えた後は、 区政に携わった経験と知見を持つひとりの区民として、 これからの政治を、 様々な角度と立場から、 見つめ続けていくことを、決意している。
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新年にあたって 関口かずお
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2023-1-1
お正月は元来 、新しい 年の穀物の実りをもたらし 、 子孫の繁栄を見守ってくれる「 年神さま( 歳徳神・正月様 )」をお迎えする行事とされる 。 祖先とともに新しい年を迎え 、皆 が平等に 一つ歳をとり 、 全てが新しく始まる「 節目 」である 。 二〇二〇年の正月 、私たちは年神さまとともに 、 「新型コロナウイルス 感染症 」という未知の病を迎えてしまった 。 皮肉にも 、全てが新しく始まる「 節目 」が 、 私たちがこれまで当たり前だとおもってきた日々の暮らしが当たり前でなくなる 、 とい う形で私たちの目の前に突きつけられた 。 それから三年 、こ正月 、予断を許さぬ感染状況とはいえ 、ようやく 、 「できる範囲の日 常 」を過こしている 。 昨年心に残った本のひとつ 「、一汁 ー菜でよいと至るまで 」の 著者 、 土井善晴さんの家のお雑煮は 、父 .勝氏の出 身地高松の 、 あん餅を白味噌のおつ ゆに入れた 、あん 餅雑煮 。 土井家では 、毎年年末に 、大勢で 餅つきをするという 。 大人たちが 、住まい を清め 、餅をつ き 、正月迎えの仕事を真剣にやる姿を見て 、 子ともたちも 一生懸命に手伝う 。 おせちを食べることがお正月ではない 。 お屠蘇をいただき 、新しい自分に生まれ変わるため 、 ます場をきれいにするのが 、日本のお正月なのだと身をもって 、示すのである 。 長年地元で 、私の活動を支えてくださる 、あるこ一家は 、 毎年末 、薪で火を焚き 、臼と杵で 餅つきをする 。 三世 代が家族みんなで餅をつく姿は 、どこか なつかしく 、あたたかく 、頼もしい 限りだ 。 最近では 、四世代目も加わって 、なかなかにきやかである 。 これこそが 、日本の正月迎えだろうと 、おもう 。 私の家でも 、八幡様への初詣 、節分 、お彼岸 、お盆 、地元の祭り 、 練馬の酉の市 、と 、様々に家族で集まる機会を持ってきた 。 六人の孫たちが 、成長とともにそれぞれの時間を過こすようになってきて 、 以前のようにはいかなくなっているが 、そ れでも 、 家族で過こした時間を 、いつ か孫たちが 、次の 世代につなげてくれたら 、 こんなにうれしいことはないだろう 。 親がしてきたことは いつの間にか子ともの心に残るものなんですね 土井さんの言葉 、そのとおりだとおもう 。 親が 、日々丁寧に 、人を大切にしながら生きる姿が 、 いつの間にか子どもの心に残ることで 、 子どもは 、生きる力 、考える力を持つのだと 、おもっている 。 関口かずお練馬区議会議員 公式サイト http://www.k-sekiguchi.jp/sekiguchi04.html
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ウェズコロナと ぼっち席
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2022-12-5
最初の緊急事態宣言から二年半が経ち、 社会の空気が少しずつ、 いわゆる「ウィズコロナ」に向かいつつあるように感じる、この夏から秋である。 海外の映像を見ると、マスクをしている人はすでにほとんどいないようだ。 日本でも屋外や会話のない場面では、必須ではないとされているが、 自分を含めて、マスクの習慣は継続している。 いつまた感染が拡大するかわからないという半ばあきらめのような気持ちもありながら、 もう少しのびのびと生活するためにも、集団免疫の獲得や、治療薬の開発を期待するところだ。 慣れるというのは、人間の生きるための能力でもあるとおもうが、 マスクをし、手指消毒をし、アクリル板を挟んで食事をすることに、 当初覚えたほどの違和感がないことに、自分でも少々驚いている。 8年前、区議会レポートで、「ぼっち席」という話題を取り上げた。 当時、ある新聞で、大学の学食で、相席を嫌がり、 一人でも周囲の目を気にせず食事をしたい、という学生の要望に応えて、 一人用の席や、アクリル板などで仕切った席を設けるところが増えており、 学生がそれを「ぼっち席」と呼んでいるということ、 そしてそれは、対人関係が苦手な反面、孤独に見られることも嫌うという、 若者たちの複雑な気持ちの表れではないかとする記事を読み、 私なりの感想を記したものである。 「ぼっち席」に座って、 食事の最中もスマートフォンを操り SNSの中にある「つながり」に夢中になっていながら 同じ「学食」という空間に実際に存在している隣の席の学生とは 言葉を交わしたり、相席したりして「つながる」ことを避ける姿は、 なんとなく、さみしくは、ないか 人の交流までもが、インターネットを介してできる時代だが 同時に生身の自分が、現実の世界で実際に生きていること そしてそこには、やはり生身の相手がいることを、忘れずにいたい この記事から6年後に、 「ぼっち席」が、感染を避けるためのツールとして、 私たちの暮らしに欠かせないものになるとは、おもってもみなかったことである。 最近、少しずつではあるが、 身近な人たちとの会食の機会を持つようになってきた。 アクリル板で仕切られてはいても、 そこには、直に会って、直に話をすることの喜びがある。 人とのつながりには、多様な方法があっていい。 でも私はやっぱり、できればアクリル板もない机を囲み、 飲み食いできる日が、待ち遠しいのである。
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だるま
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2022-3-29
私の一年は、一月の成田山初詣に始まり、 二月は壬生寺の節分会、五月の成田山詣、十一月のおとりさま、と、 ずっと変わらず「年に一度」のお参りがある。 この十年ほど、調布・深大寺のだるま市がこれに加わっている。 このだるま市は、日本三大だるま市の一つとされ、毎年三月三日、四日に開かれる。 特に「だるまの目入れ」は、深大寺独特のもので、 「阿吽の呼吸」という言葉から、新しく求めただるまの左目には、 物事の始まりを意味する「阿」の梵字を入れて開眼し、 心願叶っただるまの右目には、物事の成就を意味する「吽」の梵字を入れて、寺に納めるのである。 僧侶が筆で目を入れる姿を見ると、だるまに「気」が入るように感じ、 過ぎた一年の無事を感謝するとともに、新たな年を、このだるまとともに、大切に生きようと、おもう。 だるまを買うのもまた、この市の大きな楽しみのひとつである。 境内には大きさも表情も様々なだるまが所狭しと並べられ、 参詣者と売り手のやり取りで活気にあふれている。 私は、多摩だるまの工房「内野屋」さんのだるまを毎年買い求めているが、 年に一度職人でもある皆さんにお会いできるのも「この大きさだっけ?」と、 だるまのサイズを覚えていてくださるのも、 本当にうれしくなるひと時だ。 もちろん、だるまに値札はついていない。 その場で「これは三千円だけど、二千五百円でいいですよ」と言われ、 こちらが五千円札を渡して「このままで」とご祝儀を含めて支払うと 「いつもどうもありがとうございます。また、来年」… そんなやり取りが生まれ、だるまは私の相棒となる。 これがとにかく、とても心地よい。 職人さんが手作りしただるまを、その職人さんの手から、直に受取り、自分の気持ちの分を支払う。 そして、そのだるまに、僧侶が手書きで目を入れてくれる。 こんなふうにして自分の手元にあるだるまには、値段などつけられない、 何物にも代えがたい価値があると、おもう。 以前、酉の市の熊手に、値札をつけるという話を聞いた。 売り手との会話を避けたり、値段が不明確だと指摘したりする客への対応策だという。 古来、人々の生活を支えてきた「市」は、 人と人との気持ちのやり取りがあるからこそ発展したのだろうに、 現代の人のなんと無粋な発想だろう。 何かと制限の多いコロナ禍ではあるが、 直に心のやり取りのできる場を失いたくないと、 心底感じている。
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コロナ禍とAI(人工知能)
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2022-1-2
新型コロナウイルス感染症が拡大を始めてから、早いものでもう丸二年になる。 コロナ禍前の日常と今の生活とでは、色々と違っているが、 一番気になるのは、人と人が直接会ったり、触れたりすることが、 「避けるべきこと」とされていること。 そして、それを実現するための技術が、どんどん進んでいること。 最近最も驚いたのは、コンビニのレジで会計をする時、 タッチパネルで支払い方法を選び、支払う店舗が増えていることだ。 現金を入れると、おつりはレジが戻してくる。 「人の手」が最低限しか介さないのだ。 もちろん、こういった工夫は、感染拡大防止や、 人手不足の解消など、 社会が抱える問題に対応して生み出されたものであるから、 否定をするつもりはないが、 私にとっては、ちょっとさみしくて、 どうにもなじめないと感じている。 おなかの中の赤ちゃんが、 五感の中で最初に獲得するのは「触覚」 つまり人間の最も原初的な感覚は「触れる」ことなのだそうだ。 一、二歳の時期は特に大切だが大人になっても重要であることに変わりはなく、 医療の現場での緩和ケアなどでは、ベッドサイドに座って手を握り、 体をさするだけで、患者さんは安心するという。 コロナ禍における介護・医療施設の面会制限が、 患者とその家族に及ぼしたマイナスの側面は、 人と人とが、直に会うことの大切さを、 私たちに改めて認識させているように、おもう。 このところ、AI(人工知能)を利用する様々なサービスが行われるようになってきた。 AIの提示するいくつかの質問に答えると、 その人に合った手段や方法、好みに合った商品などが選び出される。 いわゆる窓口業務や接客業務のような、 人が、人の話を聞きながら、行ってきたサービスを、 AIが代わって行うわけだ。 例えば医療の場合、感染症が発生した地域でAI搭載ロボットが、 問診や検査、投薬や治療をすることは可能であろう。 しかし、高齢者医療や在宅医療などの分野では、 AIが得意とする、情報の集積とその分析だけでは、対応しきれないだろう。 なぜならそこに、「心」や「情」がないからである。 患者の個人差は大きく、本人とその家族への対応には、 きめ細かいコミュニケーションが欠かせないが、 それはまた、人と人とが直に接し、手に触れ、 心をつないでいく過程がなければ生まれないものであろう。 新しい年、コロナ禍が続こうとも、人とともにあること、 そして心を尽くすことを大切にしながら、日々を重ねていこうとおもう。
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越前・福井藩主 松平春嶽
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2021-11-17
毎年、この時期になると、 一年も残すところわずかだと感じるのだが、 今年はいつもの年よりも、あっという間だったようにおもう。 早二年になろうとするコロナ禍において、 国政も様々に揺れながら、ここまでやってきたわけだが、 誰も経験したことのない状況の中で、 政治のかじ取りをするということの難しさを、改めて、おもった。 今年の大河ドラマでも描かれる幕末から維新にかけての動乱期に、 決して大きく取り上げられることはないが、 私自身が、政治の場で大切におもう人物がいる。 第十六代の福井藩主、松平春嶽である。 彼は、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城と並び、 幕末の四賢候と呼ばれたが、その一方で、 彼自身が決断して、事を起こしたというような、 いわゆるドラマのない人物でもあるという。 しかし、藩主としては、財政再建を中心に藩政改革を行い、 人材の登用にも積極的であった。 漢詩人としても高く評価された春嶽が遺した七言絶句に、 私もとても好きな、彼の生き方を示すものがある。 我に才略無く我に奇無し 常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ 人事渾て天道の妙の如し 風雷晴雨豫め期し難し 「才知に富んだはかりごとも奇抜な考えもない」と自ら称した春嶽であるが、 幕末の様々な局面では、様々な人物に意見を求められ、頼りにされていた。 坂本龍馬とは「私政」に代わる「公共の政」が最善であると認識を共にし、 大久保利通には、第二次長州征伐回避への協力を求められたという。 「常に周りの意見をよく聴いて、良い方向を見出すまでだ」との考えを持つ春嶽は、 時に日和見とも言われた。 徳川慶喜を擁護し続けながら、 自分の進言により結果として新政府樹立への動きを進めてしまったのである。 詩の後半は、 「人の世の物事は、すべて天のめぐりのように不思議なものであり、 風か雷か晴れか雨かを予期することなど難しい。」とある。 つまり、 物事に、自分ひとりの力で対応することなどできはしないのだということだ。 だからこそ、人を大切にし、人の意見に耳を傾け、すぐれた意見は取り上げ、 それを実行に移す力こそが、リーダーには、求められるのだと、 それが、春嶽の生き方であった。 政治家も同じだろうとおもう。 自らに力があるのだと勘違いせず、周りの「おかげさま」があるからこそ、 今があるのだということを自覚し、 人とともに前に進むしなやかさを、忘れずにいたい。
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お陰様で議員在職40年に
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2021-8-23
今年私は、議員在職40年を迎えた。 長いといえば長い、しかし、あっという間でもあったこの年月をおもい、 いつも変わらず、私をお支えくださった皆さまへの、感謝の気持ちを新たにする。 私が初当選したのは、昭和54年、33歳の時である。 そのころの区議会議員に期待される大きな仕事は、「おらが村のインフラ整備」。 例えば地元貫井の下水道普及率は8パーセント程度であった。 また、初期のころの私の一般質問に、各庁舎への電算化システムの導入に関するものがある。 ワクチン接種の予約をはじめ、様々な手続きをオンラインで行い、 会議までもリモートで開催するという今の世の中からは、想像できないかもしれない。 私が議員として活動を始めたのは、そんな時代だが、 だからこそ、議員が議員として仕事をすることができた時代だったようにも、おもう。 今より少し、議員同士や行政と議員の距離が近かったのかもしれない。 忘れられないおもいでがある。 新人の頃、「巡回入浴バス」事業のサービスを利用していた支援者から、 大型バスで運営していることによる不便さの訴えを聞き、他自治体のことを調査、 一部自治体で民間委託が始まっていることがわかった。 事業費を抑制しながら、サービスを向上できる可能性を感じた私は、当時の田畑区長に直訴したのである。 彼はいわゆる革新系の区長であったから、自民党に所属する私とは思想信条を異にする部分も多かった。 だがこの時、私の直訴は取り上げられ、巡回入浴サービスの民間委託が始まった。 現在、様々な区の事業が民間委託されているが、 その先鞭をつけることになった施策だと自負している。 そしてこのことは、今の私の区議会議員としてのあり方の原点になっている。 区民の声を聞き、どこにどんな課題があり、今、この時局に何が必要なのか、 どんな手段があるか考え、行政と議会が両輪となり、よりよい区政を進めること。 議会では、ときに党派を超えてでも、区政の課題に取り組んでいくこと。 それが区議会議員としての矜持であると、信じている。 昨年来続くコロナ禍において、区民の生活のみならず、区財政も厳しい状況に置かれている。 過去の経験を、今の世の中に活かしていくことが、 11期目の議員としての自分の使命だと肝に銘じ、これからも議員活動に邁進したい。 もちろん、今この場に立てることのありがたさと、おかげさまの心を、決して忘れることなく。
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押印のデジタル化
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2021-3-25
最近は、新聞を購読する家庭が減っているという。 学校の行事や授業で使うために、新聞紙があれば持ってくるように声をかけても、 ほとんど集まらないという話も聞いた。 新聞社によるデジタル版やニュースサイトなどが多く提供され、 パソコンやスマートフォンで、情報を得ることが、 本当に主流になってきているようだ。 実は私も、最近スマートフォンを持つようになった。 将来的には、区議会にもタブレット端末が導入される計画があり、 「そういうもの」に少し慣れておこうとおもったのだ、 よくわからないなりに使ってみれば、 画面も大きく、検索してみたり、ニュースを見てみたりと、 なかなか便利なものである。 いわゆる「ガラケー」を使っていた時に比べると、 明らかに使用時間が長くなっているように感じている。 新型コロナウイルス感染症の拡大防止という観点から、 世の中の様々な場面で進むデジタル化に伴って 変わってきつつあるもののひとつに「押印」がある。 昨年十二月に内閣府が示した 「地方公共団体における押印見直しマニュアル」によれば、 今般の国における押印の見直しにより、 民間から行政への手続の九九・四%が廃止または廃止可能の方向とされ、 今後の目標では、全ての行政手続きを対象に、 原則として書面・押印・対面を不要とし、 デジタルで完結できるように見直すとされている。 また同時に、 この押印の見直しは、押印をなくすこと自体を目的とするのではなく、 行政手続きにおける国民の負担を軽減し、 国民の利便性を図ることだとしている。 年度初めに、様々な手続きに来庁する人でごった返す役所の窓口をおもえば、 コロナ禍で、対面を減らし密を避けるという意味でも、 手続きの簡略化という意味でも、デジタル化の推進は望ましいことなのであろう。 時代とともに、技術が生まれ、生活は変化していく。 人の生活が変われば、文化も変わっていく。 新聞も印鑑も、これまでの日本に深く根づいた文化であるが、 そのうち歴史の教科書に載る、過去の文化になるかもしれない。 逆に、細く長く日本人の生活の中に残る文化になるかもしれない。 どちらになるのかは、 人が、その文化をどのようにとらえ、どのように扱うかにかかっている。 これまでは対面を基本とした行政手続きをデジタル化し、 会議をオンラインにすることはできても、 人と人のつながりを結ぶための「対面」は、 なくせない文化だろうと、おもっている。
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弱いロボットに 人のぬくもりをおもう
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2020-12-14
おもえば、あれからまだ一年、なのである。 新型コロナウイルス感染症が国内でも確認されたが、 それほど危機感もなく、 地元町会恒例の成田山新勝寺への初もうでに参加し、 新しい年の初めに心を引き締めたのは。 そこからの状況は言うまでもなかろう。 感染拡大防止のために、「三密の回避」が提唱され、 私自身も、三月の初めに予定していた「新春のつどい」を、 断腸のおもいで中止することとなった。 マスクと消毒が手放せず、人と対面して食事をすることができない… そんな新しい生活様式が始まってしまったのだ。 予想していたことではあるが、 人と接する機会をなるべく減らすために、 公共の場でロボットが対応するという事例が、 あちこちで見られるようになった。 ロボット技術の進歩の賜物なのだろうが、 しゃべったり、案内したり、物を運んだり ロボットなりにおもてなししてくれる とは言っても、そこに「ぬくもり」はあるのだろうかと、 疑問におもっていた。 人と人とが話し、相対することによって得られる、 心のつながりのようなものが、 ロボットとの間に生れることがないのなら、 それは少々さみしいことなのではないかと。 そんな私の気持ちに、ひとつの答えを与えてくれた話題が、 豊橋技術工科大の岡田教授が研究している「弱いロボット」である。 例えば、ゴミ回収するロボットだがゴミを拾えない、とか、 昔話を語れるが、たまに話を忘れてしまう、とか。 そのロボットとともにいる人間が、つい手伝ってしまうようなロボットなのである。 岡田教授によれば、 一般的なロボットはできることを強調し、 できないことは隠しがちに開発されているが、 弱いロボットはむしろ、 苦手なことや不完全なことを、適度にさらけ出すことによって、 周りにいる人の「強みややさしさ」をうまく引き出すロボットだという。 助けてもらったロボットは、お礼の気持ちを伝え、 手伝った人間はちょっとうれしい気持ちになって、 ロボットと人の距離が近づいていくのだそうだ。 こんなロボットなら、会ってみたい、 一緒に時を過ごしてみたいと、おもった。 ロボットと人でも、 状況を共有し互いに補完しあうことで、 あたたかい関係を結べるのだから、 人と人ならば、少々遠い距離を保ちながらでも、 きっと気持ちを共有し、心を寄せて生きていくことができるはずだ。 そう信じて、新しい年を、生きていく。
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李登輝
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2020-12-14
戦後七十五年の節目を迎えた今年七月、 ひとりの政治家が、この世を去った。 台湾の元総統、李登輝氏である。 彼は自身の愛した、秋田県のある旅館に揮毫を残しているという。 「我是 不是 我的我」(私は 私でない 私) この言葉には、李登輝氏の政治家としての生き方が込められている。 彼は「肯定的人生観」を持ってひたむきに生きてきたという。 敬虔なクリスチャンでもあった彼の人生観は、 その著書によれば、 「深い愛で他者を許す神を宿す」ことによって自己中心的な自我が消え、 他者をおもう心が生まれるとし、 これを「私は私でない私」と表現した。 そしてそれは「自我の否定の上に立った他者の肯定」であり、 「私」を超えた「無私」の境地、 「私」のためでなく「公」のために働くことの大切さを表現した言葉だ。 李登輝氏はまた、 「私は権力ではない」という権力観を持っていたという。 彼にとって「権力」とは、 困難な問題の解決や理想的な計画を実行するための「道具」にすぎないのであって、 それは「一時的に国民から借りたもの」で、 「仕事が終われば返還すべきもの」であり、 いつでも手放す覚悟がなくてはならないのだ。 一国の総統と一区議会議員では、スケールの違いはあるけれども、 私の議員という立場もまた、 区民の皆さまから託されたものであり、 区政の問題解決や充実のために使う、ひとつの手段であることを、 そしてこの立場は決して「私」のためのものではなく、 「公」のものなのであることを、忘れてはならないと、おもう。 このことは、首長もしかり、区の職員もしかりで、 施策を立て、運用し、行政を動かすことができる立場にある人間は、 自分という人格でありながらも、 「私」で動くのではなく「公」のために働くという意識を常に持ち続けていなければならない。 なんとも厳しい話ではあるが、 これこそが「公」の立場にある者の、第一の心構えであろう。 李氏の大切にした言葉が、もうひとつある。 中国の古典、中庸にある 「誠は物の終始なり。誠ならざれば物なし」。 彼にとって「誠」とは、 「相手にわかる言葉で説く」ということであったという。 私が議員として、 様々な場面において自分自身のおもいを、言葉で伝えるとき、 こころに「誠」をもっているか。 一般質問を終えて、この文章を書きながら、 何度も自分に、問いかけ続けている。
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中曽根氏と風見鶏
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2020-3-6
私の好きなもの、興味のあるもののひとつに「焼き物」がある。 訪れた先に、その土地の焼き物があれば、 手の出るくらいのものを何かひとつ買い求めるようにしている。 土や製法の違いで、様々な色や形をしている「器」たちは、それぞれ違った魅力を持っている。 「器」はまた、人の能力や人格を指す言葉でも、ある。 日々使う器に形や大きさの違いがあるように、 人のありようは様々で、器量とはよく言ったものだと、おもう。 昨年秋、中曽根康弘氏が百一歳で亡くなった。 報道各社が大きく取り上げている様子に、 中曽根氏の存在の大きさを感じるとともに、 平成が終わり、令和が始まった年に、 改めて昭和が終わったような、そんな気持ちになった。 中曽根氏にまつわる言葉は色々あるが 私の中で一番印象に残っているのが、 「風見鶏」である。 彼の政治スタイルを表する言葉として使われた。 周囲の状況を見て、 自分に都合のよい方につく人だと揶揄する言葉である。 佐藤内閣で入閣した際、それまで「反佐藤」と目されていた 彼の変わり身の早さから名づけられたものである。 しかし、その時彼は、 自分が本気で取り組みたい、沖縄問題を扱うポストならば、 国家のために一緒に命がけでやる、とのおもいだったという。 後に彼は、風見鶏と呼ばれたことについて 「風見鶏というのは悪くない。 というのは、足は固定しているんだ。しかし、体の上だけが風で動いている。内外の状況によって対応が異なっているというのは、政治として当たり前のことなんですよ。(NHKHPより)」 と語っている。 世の中に、マイナスなイメージでとらえられていた「風見鶏」だが、 彼の言うように、確かに「足」は固定していて、 どんな風が吹こうが、ぶれも倒れもしない。 しかし、 体は風を受け、風にあわせて動くことができる。 その時の時局、世界の流れや動きといった風を読み、 施策を変えながら進んだ、中曽根氏の信念と、 底知れぬ「器の大きさ」を感じさせられる言葉である。 そしてまた、 最近の政治家の発言に、中曽根氏の器との違いを、おもう。 かくいう私自身も、ひとりの政治家として、 自分の器がどれほどなのかとおもうこともある。 そんな時には、焼き物の器の大きさは、 完成した時から変わることはないけれど、 人の器の大きさは、その経験やおもい、で、変わるものだと信じ、 前をむくことにしている
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元号のおもい 言葉のちから
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2020-1-1
令和時代が始まった。 昨年新元号が発表された時、 自分の名前の一文字が入っていることを光栄におもうとともに、 新元号や過去の元号に込められたおもいを知りたいと、 色々と調べてみた。 私の生まれた「昭和」は、 書経にある「百姓昭明 協和萬邦」という一節に由来し、 国民の平和と世界の共存・繁栄を願うものだ。 「平成」は、史記にある「内平外成」と、 書経にある「地平天成」という言葉から、 国の内外、天地とも平和が達成されることを意味するという。 古くは、 天災や疫病の流行など、人々にとって不幸なできごとが続いたとき、 負の連鎖を断ち切る意味で、改元していたことをおもえば、 元号に平和や繁栄を願う言葉や文字を用いようとするのは、元号の生まれた古代から、 日本人が持ち続ける「言葉の力」に対する、 深いおもいであるように感じる。 昭和、平成の時代をおもうとき、 元号に込められたおもいとは、違った方向に社会が進んでしまうこともあると気づく。 昭和では、 平和と共存、繁栄という願いが込められていたはずなのに、 自国の繁栄へのおもいが強すぎたために、 戦争という悲劇を招いてしまった。 平成は、 国内外、天地の平和を祈るものであるのに、 各地でテロや自然災害が発生し、当たり前が当たり前でなくなることを実感する時代でもあった。 しかし、やはり元号に込められたおもいは強い。 昭和の敗戦後、日本は急速に復興を遂げ、 国際社会での地位を築き、国民の生活は、 格段に向上した。 平成においても、数々の自然災害に直面しながら、 人々は助け合い、復興を遂げてきた。 そして、「令和」。 和書を典拠とする初めての元号である。 万葉集巻五の序「初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」 から引いたとされる。 「令」には、 吉と通じるめでたい意味があるとともに、 命令の意味を含むことから、 令和は「和たらしむ」とも読めることから、 「世の中を平和にさせる」 「世界が調和され、平和が永遠に達成される」 というメッセージが込められているという。 昭和、平成に続く令和は、 これまでよりも一層の平和と安寧への強いおもいがあるように、 おもう。 令和2年が明けた。 元号に恥じぬ時代にするために、 新たな時代、区政の場に立てることに感謝し、 自らの経験と感性、 そして新年を持って、 邁進することを心に誓う、 新年である。
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大切にしたい 「こころの備え」
災害・防災対策
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2019-10-1
日本語には、「雨」や「風」の呼び名がたくさんある。 一節では、雨には四百、風には百五十を超える言葉があるのだそうだ。 美しい響きを持つ雨と風も多くある。しかし、この夏の雨と風は、どうも「豪雨」や「暴風」という言葉ばかりが目立ったように、おもう。 九州北部豪雨では、「数十年に一度」「これまでに経験したことのないような」雨となり、大雨特別警報が発令された。台風十五号の風雨による千葉県や伊豆諸島の被害も深刻である。いずれの場合も、早い段階から備えを呼びかける情報が出されていたものの、自然現象は常に変化し、人間の予想を超えた状況が起こるものだということを改めておもい知らされた。 特に、千葉県で発生した広範囲の停電とその長期化は、住民生活に大きな影響を及ぼし続けている。家庭で電化製品が使えないことはもちろん、停電による断水の発生、携帯基地局のダウンと、端末の充電ができないことで、情報収集や連絡する手段を失った人々。 今の私たちの生活は、これほどまでに電気を始めとする「当たり前」に依存しているのである。 海上保安庁出身で、南極観測隊の料理人として越冬経験もある、西村淳氏は、その著作「身近なもので生き延びろ」の中で災害にあったとしてグチャグチャになってしまった環境でも、泣き暮らして他者の救済が舞い降りてくるのを居心地よく、楽しく、住みやすく、そしてちょっぴり元気が出てくる方法について述べている。 防災グッズが見当たらなくても、その時そこにある、雑誌、新聞紙、段ボールに牛乳パック、ラップにゴミ袋にガムテープがあれば、こんな風に使えるかもしれない、という、前向きで明るいアイディアの数々に、何となく、生き延びられそうな気がしてくる。 西村氏は、厳しい気候と、極地ゆえの様々な制約と閉塞感のある場所、つまり災害時の避難所のような環境とも言える南極で、「そこにあるもの」で様々な料理を作り、生活を営んできた。海上保安官として、海難事故の現場でも活動した。 その経験から、西村流究極の災害対処法は「小さな楽しみを心の中につくる」これだけでよい、心を少しホッコリさせれば、復興に向かう人間力は、確実に高まるのだという。 今、被災地に届けたい言葉である。 自然災害は、いつか自分も必ず向き合うものだ。施策的、物理的な備えはもちろんだが、地域の人たちが「ちょっぴり元気をだせるような心の備え」についても、しっかりと考えてみたいと、おもう。
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人生の本舞台 2018年 3月 13日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-8
平昌オリンピック・パラリンピックでの熱戦は 記憶に新しいところだ 四年に一度の戦いの場に立つこと そしてそこで、実力の限りを出し尽くすこと 競技中継や 選手たちのコメントを見ながら その場に臨む重圧と 一瞬のために日々積み重ねてきた 努力と時間をおもうと同時に ある政治家の言葉を、おもいだした その政治家とは 明治二十三年の第一回総選挙から 連続二十五回当選 昭和二十八年まで六十三年間衆議院議員を務め 「議会政治の父」「憲政の神様」とよばれた 尾崎行雄(咢堂)である 彼がそう呼ばれたのは 議会政治の黎明期から 依然残っている藩閥や軍部など 議会をないがしろにする勢力と対決してきたからだという 昭和のはじめ 尾崎は盟友である犬養毅を5.15事件で失い 療養中だった夫人も亡くす 自らも病床に伏して打ちひしがれていた時 天啓のように ある言葉が頭に浮かんだという 「人生の本舞台は 常に将来に在り」 たとえ今 どんな苦境にあろうと それを糧にし、前に進むこと 今 どれほど成功しているとおもえても それに満足すれば それ以上の成長はないこと 怪我や逆境にもがき苦しみ その中にあっても 自らを奮い立たせメダルを手にした 幾人もの選手たちの姿に この言葉を 改めてかみしめた オリンピックと並べるのは 少々気が引けるけれども 四年に一度 戦いを迎えるのは 地方議員も同じ、である 自分自身 信念を持って議員として生きてきたという自負がある だが 時局や政局が 自分のおもわぬ方向に展開してしまうこともある 自分がこれまで大切にしてきた 政治家としての「流儀」が 通用しない場面に遭遇することも、多い 一体何を信じればよいのか どうすればよいのかと 考え込んでしまうこともある そんな時 私はいつも この尾崎の言葉を、おもう なぜなら彼が 人生の本舞台を将来に見据え 軍部の台頭に再び立ち向かう闘志を奮い立たせた その時は 今の私と同じ 七十代半ばのことであったから 私なりの 区議会議員としての生き方で 前に そして次に進むこと 私のこれからの、目標である 憲政記念館に掲げられる 九十四歳の尾崎がしたためた 「人生の本舞台…」の書はまた 人生百年時代の 心の支えでも あるのだ
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我が家とのしばしの別れにおもうこと 2017年 12月 14日
まちづくり
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
この夏、引っ越しをした。 区が進める 「密集住宅市街地整備促進事業」に伴う 生活基幹道路A路線の整備(拡幅)のためである。 貫井・富士見台地区まちづくり計画は この地区の 歩道のない、狭く曲がりくねった道路や 公園緑地の少なさ 新耐震基準以前の建築物の多さ などの問題を解決し 災害に強く、安全・安心で住みよいまちづくりを 実現するために 平成23年から始まったもので 今回、私の自宅を含むエリアが対象となったのである。 引っ越しにあたって 荷物を整理してまとめるには 随分時間がかかった。 懐かしい写真や、おもいがけないものが出てきて 色々と考えることも多かった。 しかし何よりも 十数年暮らした我が家が このあと取り壊されること、に、さみしさを覚えた。 孫たちが生まれ、育ってきた家。 小さな庭には 二番目の孫の河津桜をはじめ それぞれおもいでのある樹々。 家に対する愛着とは、これほどなのか、と 少し、おどろいた。 住み慣れた貫井町から離れたマンションでの仮住まいは 部屋数からも 今までのように「自分だけの空間」を持つことが難しい。 今はまだ何となく、落ち着かない感じだ。 今回のことで、改めておもったのは 災害で家を失った被災地の人たちのことだ。 私のように、区の事業で 計画も日程もある程度分かっていての 自宅の取り壊しであっても これほどに労力を使い、気持ちの整理も必要である。 ましてや 突然の災害に見舞われ 自然の力に抗うこともできず 住み慣れた家やまちを そっくりそのまま失ってしまうことは どれほど辛く、かなしく、 言葉にならないほどのおもい、であろうかと。 そしてまた 仮設住宅など、これまでと異なる住環境に 長期に身を置き 復興に向けて努力していくということは どれほど大変なことだろう、と。 東日本大震災以降にも、数々の災害が起こり 今年の夏も豪雨や台風の被害が発生した。 復興関連の記事も 被災状況を伝えるニュースも 今の私には 今までより一層、重く感じられる。 被災地の人たちの気持ちをおもい 心を寄せ続けること。 今一度、しっかりと心に刻みたいと、おもう。 まちづくり事業は 20年以上の長い時間をかけて進められる 地域の皆さまの ご理解とご協力なくして、進まない事業である。 今後も、この事業によって 住み慣れたまちが より住みよいまち、愛せるまち、になるよう 区政の場で、努力していきたい。
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変えるのか 変わるのか 2017年 12月 14日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
今年の春 中学を卒業した孫と 初めてふたりで旅をした。 目的地のひとつは 私が学生時代に 大変お世話になり影響を受けた 薬師寺。 旅行の日程が花会式に当たるので ぜひ見せたい、とおもったのだ。 村上太胤管主にもお会いし昔話をしていると 管主が急に おじいさんが結んでくれたご縁なのだから 法要期間、薬師寺に泊まって奉仕活動をしてはどうかと 孫に勧めはじめた。 本来は高校生以上が参加するのだが 4月には高校生になるのだから特別に許可しようと言われ さあ、どう答えるか、とおもっていたら 「よろしくお願いします」と一言。 少し驚いたが それから二日間、花会式とお寺での生活を経験し ひとり新幹線に乗って戻ってきた。 どうしているだろう、と、少々気をもんでいたが 帰ってきたときの表情も、その後の雰囲気も これまでと少し違っているような 彼の中で何かが、ちょっと変わったのかもしれない そう、おもった。 自分で選んだ高校に進み 幼いころからの夢に向かう孫の横顔は 最近、時にとても、大人びて見える。 昨年来、政治の世界では「変える」という言葉が キーワードになっているようにおもう。 都知事を始めとして様々な政治家が 議会や行政のあり方を「変える」という。 しかし、私にはこの「変える」という言葉が 少々傲慢であるようにおもえてならない。 時代や社会が変化していく中にあって 議会や行政、議員や施策も変わっていくのは当然であり また、変わらなければならないもの、である。 しかし、今言われている「変える」は 今の議会や行政を、古いもの、変えるべきものとして対峙し 自分たちのやり方こそが正義であると述べるための 方便であるように感じる。 もちろん 我が自民党にも、練馬区議会にも、練馬区政にも 変えるべきところは多々あるとおもう。 しかし、何もかも変えればいい訳でも、ない。 むしろ私を含めた、議員一人ひとりの意識 行政に携わる職員一人ひとりの意識が ほんの少しでいい、「変わる」ことの方が 議会や政治を、 後々大きく「変える」きっかけになるのではないか。 時に大ナタを振るう必要があることもまた 事実ではあるのだけれど。 人が「変わる」きっかけは様々である。 孫にとって、薬師寺との出会いもそのひとつであったなら 祖父名利に尽きる。 そしてもうひとつ、彼に贈る言葉は 「心変わりだけはせず、前に進め」 である。
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今 ここにいる ありがたさ 2017年 1月 27日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
練馬で生まれ育ち これまでの人生のほとんどを 練馬で過ごしてきた私だが もうひとつ 大切におもっている「ふるさと」がある 母の実家のあった、千葉県のとあるまちである 小学生のころまで 毎年夏になると 母に連れられてそのまちへ行き 母の実家に寝泊まりして過ごしていた 浜辺で地引網を引き 池に魚を取りに行き 田畑で虫を取り ・・・朝から晩まで、自然の中で遊びまわった 一人っ子だった私にとって 親戚の子たちと大勢で過ごすこともまた 実に楽しかった 幼い私に刺激を与えてくれた 新鮮な魚の味、海のにおい、真っ青な空は 間違いなく 今の私の一部になっている、と、おもっている そんな千葉の「ふるさと」には 先日閉店した、秩父の蕎麦屋のご店主 お勧めの日本酒の酒蔵もある いつか訪れてみたいとおもい続け 昨年10月のある日、ようやく実現した 東京から特急に乗り込み 1時間と少しで到着 子どもの頃には 朝練馬を出て、電車を乗り継いで到着すると 夕方になっていたのとは ずいぶん違っている 駅前の風景も 子どもの頃の記憶とは違っていて すぐには馴染めなかった 母の実家は駅の東側だったという記憶と 地図を頼りに進むと 酒蔵が見えてきた 杉玉のつるされた木の門をくぐり 作業場に併設された販売コーナーに行くと 若い女性が それぞれの酒について説明しながら 試飲させてくれる 秩父の蕎麦屋で一番多く飲んだもの 自然農法で育てた米で仕込んだもの 仕込み方の違いでまるでワインのような味のするもの 40年熟成の古酒など 一口ずつではあるが、様々な味わいに この蔵に出会えてよかったとおもった 説明をしてくれた女性はこの蔵の娘さんで 彼女もまた 自分の蔵の酒を大切におもい 自分の言葉でその酒の味や香り、作り方を伝え 大切に味わってもらいたいとおもっているのだな、と感じた 試飲しているとき この蔵の四代目にお会いできた 秩父の蕎麦屋でこの酒に出会ったこと 自分の母の実家がこの地であり 幼いころ夏を過ごしたことなどを話した 四代目の顔はおだやかだが 自らの蔵を守り育てた強さも感じる この蔵の酒を思わせる方であった 秩父の蕎麦屋のご店主も 四代目も 本当に良いご縁をいただいたとおもう そして 同世代である自分もお二方のように 自分のおもう道を まっすぐに生きていきたいと 心から、そうおもった 結局 母の実家は見つからなかったが 川や海辺 丘や生け垣の小路など 幼いころに見た風景は、まだ、残っていた 小春日和 少し汗ばみ歩きながら 母をおもい これまでの自分の人生をおもい 自分がいま、ここにいることのありがたさに 胸があつくなった
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「出たい人」より「出したい人」 2016年 12月 1日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
おかげさまで 今年私は、議員生活35年を迎えた 節目の年 よく、おもいだすのは 初めて選挙に出馬したときの 様々なことだ そのころ私は 父の代からの自動車整備業を営んでいて 議員になる、などということは まったく考えたこともなかった それが それまで支援していた議員に代わる人間を擁立し 次の選挙を戦わなくてはならなくなった 地元の方々の話の中で 様々な理由から 私の名前が出てきた、というのだ 出馬するよう説得にやってくる 地元の人たちの 「お前にやってほしい」という 真剣な気持ちに 押しつぶされそうになりながら 大変に悩んだあげく 私の足は いつの間にか 奈良 薬師寺へと向かっていた 高田好胤猊下は いつものように迎えてくださったが 何故私がやってきたのか まったく訊ねもしない 三日ほど経ったころ ようやく私が ことの顛末とともに 「どうしたらよいか、分かりません」 と告げると 好胤猊下は、ただ、ひとこと 「関口、アホになれや」 この言葉と 薬師如来さん、日光さん、月光さんのお顔を見て 私はようやく 支えると言ってくれる人たちの気持ちに応えること ただ、それだけのために生きる 「アホ」になろうと決心したのである 以来これまで アホであることを自覚し アホだからこそ 様々に人に訊ね、教えを乞い、 アホなりに考える議員生活だったとおもう 日本の政治史に 大きな足跡を残した女性政治家のひとり 市川房江氏の言葉に 「出たい人より、出したい人」 というのがある 私の思想信条としては 市川氏と それに続く方たちとは相容れない部分も多いが この言葉については 言い得て妙、というか 自分が議員になった経緯は まさにこの言葉のようであったと、おもう 「出たい人」ではなかった私が 私のことを「出したい人」だと おもってくれる人たちに支えられて 選挙を戦い議員となり 紆余曲折はありつつも 35年、議員として 仕事をする立場を与えていただけている 本当に おかげさま・・・とおもわずにいられない 人生である ところで 先般の都知事選では この言葉の 奥深さと難しさとを 改めておもうことになった 他に先駆けて出馬を表明した小池氏は その時点では 「出たい人」、であった それに対し 自民党も他党も 「出したい人」を選んだ、と言って 別な候補を擁立した しかし その候補者が 「誰にとって、出したい人」なのか 「何のために、出したい人」なのかが 不透明であったと、おもう そうこうするうち 本気で都政に向かおうとする 小池氏の姿勢と明快な発言が 有権者の心を動かし 彼女は 「出たい人」から「出したい人」に そして「なってほしい人」に なっていたのだと、おもう そんな 「うねり」を感じさせる結果であった 今年も 残すところ二ヶ月を切った 好胤猊下の説法を読み返し これからもアホであり続けねば、と 気持ちを引き締める そんな晩秋の夜である
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奈良・薬師寺 村上太胤管主講演会のご案内 2016年 10月 8日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
おかげさまで 今年 議員在職35年表彰と 総務大臣感謝状をいただきました ただ政治家として日々を積み重ね 今日に至る その最初の決意を決めたのは 大学時代からお世話になった 奈良・薬師寺で 高田好胤猊下の 「関口 アホになれや」 この ひとことでした 私にとって とても大切な薬師寺さんとのご縁で 今年も 薬師寺管主をお迎えして講演会を開催します 思想、信条に関わらず 多くの皆さまに 村上太胤管主のお話に触れるひとときを お過ごしいただければとおもっております 参加ご希望の方は メールまたはファックス、お葉書にて お名前、ご住所、ご連絡先をお知らせください どうぞよろしくお願いいたします 奈良・薬師寺 村上太胤管主講演会 ~般若心経の心 さわやかに生きる~ 日時:平成28年10月29日(土) 午後3時(午後2時半開演) 場所:練馬区立練馬第二小学校 (練馬区貫井2-31-13) 会費:¥1,000 (当日会場でお支払ください) 連絡先は メール:sekiguchi.kazuo.nerima@gmail.com FAX:03-3998-1752 お葉書の場合は 〒176-0021 練馬区貫井3-53-8 関口和雄事務所
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大切な蕎麦屋 2016年 9月 12日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
今から30年ほど前 駆け出しの議員だった私は 区政や議会、行政について語り合える 先輩や仲間たちと とある蕎麦屋を訪れた その時分は とにかくうまい蕎麦と日本酒 そして 仲間たちとの語らいに夢中になったものだ しかし数年前 その蕎麦屋を再び訪れて 変わらぬ蕎麦のうまさもさることながら なにより「空気」がいい、 ということに気づいた 自分のペースで 酒を楽しむもよし 蕎麦を食べるもよし その店の中に身を置くことが とても心地よく なにより一番いいのは 店主のお顔である 蕎麦の味の丸さ 店の空気のおだやかさそのままの まなざしをされている それ以来 月に一度は時間を作って その店の すべてを味わいに行くようになった そうするうち 店主や奥様と言葉を交わすようになり 店主と私は同年であること 40年ほど前に サラリーマンから蕎麦屋へ転身したこと 日本酒がとてもお好きであること など 互いに何となく 相通ずるものを感じるようになった 以来 店を訪れるたび 自分の目指す蕎麦を打つ店主の姿に 私も負けずに 政治家としてさらに精進しなくては、と おもいを新たにしてきたのである 2月 人づてに かの蕎麦屋が 今年の9月いっぱいで店を閉めるのだと聞いた 何があったのだろうかと気をもみながら 先日ようやくお会いすることができた 変わらずおだやかなまなざしのご店主は 蕎麦屋のほかに、まだやりたいことが、あるんです やるなら、今しかない、とおもって決めたことです 何をするかは、まだ、ナイショです そう言って、静かに でも ちょっといたずらっ子のように笑う 隣の奥様も 蕎麦屋を始めたときと同じ やると言ったらやるんだから、仕方ないですね と、微笑んでいる この店の蕎麦だけでなく この空気を もう二度と味わえなくなるという 寂しさを感じながらも 同年のご店主の 今、また一から「やりたいこと」に 向かおうとする気力と姿勢を前に 負けられないぞ・・・ むくむく闘志が湧いてきた ならば私は これからも政治家ひと筋に全うするのだ、と 私は10期目の議員である 多選や年齢について とやかく言う向きがあることも承知している しかし これまでの経験とともに 年齢を重ねた 今の私だから持てる視点、考えを活かすことこそ 私の役目だと信じている 政治、経済、社会保障、災害からの復興と 今の日本は 様々な課題を抱えている 政治家として 自分はそれらにどう立ち向かうのか 私の大切な蕎麦屋が 店を閉める9月までは できる限り店を訪ね 蕎麦と空気を味わい 心に刻み 英気を養うことにしよう
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熊手に込める おもい 2016年 1月 30日
民間委託
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
我が家には 家族全員で迎える 恒例行事がいくつかある。 孫たちの成長とともに 少しずつ形は変わっているが 酉の市も、そのひとつだ。 酉の市といえば熊手。 我が家でもかならず前年のものを納め 新しいものを買い求めている。 この熊手を買うときの 熊手商さん達とのやり取りが 酉の市の楽しみのひとつだ。 熊手には、値札がついていない。 だから「これ、いくら」で始まり 「ちょっとまけて、いくら」で取引成立したら 負けてもらった分は ご祝儀として店においてくる。 そんな粋な買い方をする大人たちを 幼いころから目にしてきたから 熊手はそうやって買うものだと おもってきた。 普段の買い物とは違う 祭りや縁起物独特の味わいが、好きだ。 数年前新聞に 浅草酉の市の一部の店での 熊手に値札をつける取り組みが取り上げられていた。 「値切るのが恥ずかしい」 「値切るのにためらいがある」 というアンケートに基づいた試みだったようだ。 今現在、その値札がどうなっているのか分からないが にぎやかな祭りの店先で いつもの買い物と同じように 値札のついた熊手を 「商品」として選ぶ姿は 少しさみしいように、おもう。 年に一度 一年の無事を感謝し 新たな一年の幸せを祈願する。 縁起物には そんな意味や気持ちが込められているのだから 本来ならば 縁起物に値段がついているということ自体 無粋なことだ。 だからこそ その場のやり取りと お互いの気持ち そして値切る会話を楽しむ。 値切った分をご祝儀にするのは 売り手と買い手が ともにいい気分を味わえるからだろう。 お互いにとって よい年になりますようにと、おもいあう場 それが祭りの「市」なのである。 ところで 区議会で、事業の民間委託案件を扱う時 気になっていることがある。 限られた財源を 必要なところに 可能ならば 金額を抑えながら 必要な分をあてること、は もちろん必要である。 しかし 民間委託の理由の第一が 予算の削減 つまり、「安くするために値切る」ことだとするならば それは、大きな間違いである。 たとえ予算額は変わらずとも 民間のノウハウを導入することで 事業の質が向上する それこそが、民間活用の本来の姿ではないか。 区の担当職員は 委託先に丸投げにせず 常に現場を意識し 受託する側も 事業の理念を理解し 心をこめて運用にあたる。 区と事業者が、ともに事業を大切に扱い 互いのおもいを共有することができれば その事業のレベルは、確実に向上するだろう。 安く買うために 熊手を値切るのではない。 値切り分は ご祝儀として売り手の気持ちを潤し 買い手自身の気持ちも潤すのだ。 民間企業や団体と そんな温かい関係が築けるような 区政でありたい。
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究極の災害対処法 2016年 1月 16日
災害・防災対策
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
日本語には 雨を表す言葉がたくさんある 一説によれば 400を超える「雨」があるのだそうだ 美しい響きを持つ雨も、多くある しかしどうも今年は 「豪雨」という言葉ばかりが 目立ったようにおもう 特に 関東・東北豪雨での甚大な被害は 自然災害であると同時に 一部の自治体において 予測される災害への対応と対策が 十分に機能しなかった結果であるようにも感じる もちろんこれは その自治体を責めるものではない 私たちの住む練馬区で 災害が発生したとき 自治体として 本当に適切な対応ができるよう 常に備えておく必要を 肝に銘じているところだ 海上保安庁出身で 南極観測隊の料理担当として越冬経験もある 西村淳氏の著作に 「身近なもので生き延びろ―知恵と工夫で災害に勝つ―」(新潮社) というものがある タイトルだけ見れば 災害時マニュアル本のような印象だが 実際には 「災害にあったとして グチャグチャになってしまった環境でも 泣き暮らして他者の救済が舞い降りてくるのを じっと待つだけでなく 少しでも居心地よく、楽しく、住みやすく、 そしてちょっぴり元気が出てくる方法」 なるものをテーマにしている 不意の災害に襲われた時 準備していたはずの防災グッズが 見当たらなかったとしても その時そこにある 雑誌、新聞紙、段ボールに牛乳パック ラップにガムテープにゴミ袋があれば こんな風に使えるかもしれないという 前向きで明るいアイディアに 何となく 生き延びられそうな気がしてくる 著者は 厳しい気候と 極地ゆえの様々な制約と 脱出不可能な閉塞感のある場所 つまり 災害時の避難所のような環境ともいえる南極で 「そこにあるもの」を使って 様々な料理を作り 日々生活を営み また海上保安官としても 海難事故の現場で 生命の危機に瀕した人々を 救い出してきた それらの経験から 災厄やトラブルに遭遇したとき 人間として茫然としてしまうのは当然だが その後 ただ悲嘆にくれているだけの人より 一度心をリセットして その後の処理に当たろうとする人の方が 格段に 「立ち直りパワー」が強いことに 気づいたのだそうだ だから 西村流究極の災害対処法は 「小さな楽しみを心の中に作る」 これだけでよい、という こころを少しホッコリさせれば 復興に向かう人間力は 確実に高まるのだと 自然災害は 他人事ではなく いつか自分も必ず向き合うものだ 施策的、物理的な備えはもちろんだが まちを復興させる原動力となる 地域住民一人ひとりが 「災害時にあっても、ちょっぴり元気を出せるような備え」 についても しっかり考えてみたいとおもう
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「本当にわかる」ということ 2015年 12月 10日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
選挙も終わり、十期目のスタートを切った矢先のことだ。 駅の改札付近を歩いていると ひとりの若者が スマートフォンを見ながら 前から歩いてくるのが見えた。 その若者は 突然私の方に向かって曲がり 彼の頭が、私の顔面にぶつかった。 私の眼鏡は割れて吹っ飛び 目の上を三針縫う怪我をしたのだが 彼は立ち止まりもせず 改札の中に消えていったのである。 ながらスマホが原因の事故の話を 最近よく耳にするが 自分が実際に遭遇すると 本当に危ないと、実感する。 街中でも 電車の中でも どこでもスマホに熱中する人たちの姿を見ると 少々気味悪く感じる時もある。 そんな自分は 頭が固くて古いのだろうか と、おもっていたら 信州大学の入学式での、山沢学長の挨拶が話題になっていた。 ことの起こりは 4月5日の朝日新聞デジタルに掲載された 次のような記事である。 「『スマホやめますか、それとも信大生やめますか』。(中略) 山沢学長は、8学部の、新入生約2千人に、こう迫った。」 この一文が 挨拶全文を踏まえずに独り歩きし ツイッターなどで 賛否両論が巻き起こったというのだ。 後に 大学のホームページに掲載された 学長挨拶の全文を読んでみると 確かに 携帯電話やスマートフォンを 「毒」だとする強い言葉もあるが 学長の真意は その後に続く 次の言葉に込められているとおもう。 「スイッチを切って、本を読みましょう。 友達と話をしましょう。 そして、自分で考えることを習慣づけましょう。 自分の持つ知識を総動員して ものごとを根本から考え 全力で行動することが 独創性豊かな信大生を育てます。」(信大HPより) 大学時代にしかできない経験をして しっかり学び 自分を高めるために 自分の時間を有効に使ってほしい 学問の先輩として 後輩たちに気持ちを伝えたい そんな学長のおもいが 伝わってくる文章である。 スマートフォンのくだりからだけでは 分からないことが多いのに 不確かな情報に 一時の感情で反応し ネット上で自分の言い分を書き連ねるという行為は あまりほめられたものでは、ない。 スマートフォンやインターネットの利便性を 否定する気はないが 時と場合に応じ 理性ある使い方をすべきだとおもっている。 検索したことを鵜呑みにし 分かったような気になるのも危険なことだ。 現場に行き、人に会い 自分自身の目で、耳で、肌で感じずに 本当に分かるということは あり得ないからだ。 これは学生も政治家も、同じである。 10期目の4年間は より一層現場感覚を大切に 血の通った政治を進める努力をすると 改めて心に誓いながら 日々過ごしている。
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桃栗三年柿八年 議員の花実はいつ結ぶ 2015年 4月 24日
その他
関口 和雄
練馬区議会自由民主党
練馬区議会自由民主党 副幹事長
2018-11-7
我が家には ささやかな庭がある 折に触れて 気に入った木や草花を植えているので 居間からは 四季折々の眺めと それらの木や花をめあてに集う 鳥や虫たちの息吹を 身近に感じることが、できる 庭の木には 孫が気に入って買ったものも、ある 二番目の孫の 小学校入学記念に彼が選んだのは 「河津桜」であった 今年 六年生になった彼の桜は いつしか大人の背丈ほどになり まだ寒さの残る春先 やさしいピンク色の花を咲かせた 自分で大切に世話をして 彼が家を巣立つとき、この桜を持っていく というのが 彼との約束、である 他の家族にも それぞれに おもいのある木や花が、ある 本当に小さい庭だが 私たち家族にとっては 大切な場所、なのである 忙しい日々の中でも 時間を見つけては この庭の 草取りや手入れをしたり 新たな草木を植えたりするが おもいのほか 育てるのが難しいこともある そんなとき、おもいだすのが 「桃栗三年 柿八年」 という、ことわざ、だが 先日読んだ本で このことわざに「続き」があることを知った その本の作者が気に入っているのは 「柚子は九年で花が咲く」だが 「柚子は遅くて十三年」 「梅は酸いとて十三年」 「枇杷は九年でなりかねる」 「梨の大馬鹿十八年」 などなど 言い方は地方によって 様々であるらしい いずれも 収穫に至るまでの時期を表す俗言だが 転じて 物事が成就するまでには時間がかかる という ことわざになったものだ 人生にも 「花を咲かせる」とき 「実を結ぶ」とき、があるだろう 自分にとってのその時期を いつだと捉え どのように迎えるのか 最近よく 自分自身に そう問いかけている 関口和雄という 「一本の議員の木」は 三十余年の議員生活の中で じっくりと時間をかけ 諦めることなく努力し、勉強し 精進を重ねてきた 若木の頃に比べれば 根も張り、幹も太く、枝も繁っているだろう 木としては 立派になったかも、しれない しかし 議員として生き、仕事をすることにおいて 木が「花を咲かせること」「実を結ぶこと」とは いったい、何を指すのだろう、と考えたとき むしろ 今の木になったからこそ 「咲かせられる花」「結べる実」が あるのではないか と、思うようになった 同じ花でも 我が家のささやかな庭で 二番目の孫の河津桜が咲かせる花の可憐さと 我が母校 大泉高校の校内にある 樹齢を重ねた八重桜が咲かせる花の優雅さは それぞれ違うが その違いこそが 何物にも代えがたい それぞれの木が持つ特徴であり すばらしさ、なのだ 樹齢三十余年の 一本の議員の木、として 今の自分だからこそ 「咲かせられる花」「結べる実」をもとめて 変わらず そしてより一層 努力するつもりだ